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終日田舎暮らし

限界を突破した田舎に住む、ちっぽけな生き物が、忘れたくないことを綴る

【戸惑いの惑星】博多公演観劇

2017年2月18日、19日と、福岡県は博多、キャナルシティ劇場で公演の

【戸惑いの惑星】を見てきた。

3回公演。なんとか3回分のチケットを確保できて、全公演を観ることができた。

 

その感想や引っかかり所(ツッコミ所)を、ざっくばらんに書き残しておく。

随分とガタが来た頭が忘れてしまわないうちに。

 

 

まず、前置き。

基本的に脳内容量が少ない。なので、非常に偏った見方になっている。

読まれる方はそれを大前提にこの先を進めていかれたし。

ちなみに、おいらの今回の観劇は、こんな感じだった。

1回目。ストーリーをとにかく追う。

2回目。その中で自分が見るべき人間(すまない。おいらは長野氏信者だ:笑)が

どのように動いているのかを見る。

3回目。前2回を見た上での、彼の動きやストーリーとの絡みに上積みをしていく。

 

そして、これ重要。まだ大阪公演がある。

勿論、盛大にネタバレしている。警告は書いておく。

 

そしてくだらないのはこの上ない。

ブログタイトル下にあるように、とんでもない田舎者なので、

観劇の機会なんぞ微々たるものだ。

ましてや芸術的な知識より、

イノシシやタヌキと戦う知識が必要な世界に生きているおいらに、

高尚なことなんぞが語れるわけがない(笑)

 

自分は何度も見たい質なのだが、今回はこれが限界。

後(大阪)にも先(東京)にも、チケは取らせてもらえなかった。残念。

願わくば、DVDが販売されれば良いのにと思っている。

 

さて、長々と隙間を埋めたが、1ページ分は流れたかな?

(あそこのファンは怖いからのぉ:笑)

 

以下、時系列無視で箇条書き。

 

 

●フリートークのように始まるオープニング。

 「戸惑う事を教えて欲しい」というネタ振り手紙に、一番に手を挙げる長野氏。

 そのオープニングが進行した先でも、

 井ノ原氏が「あんた、そんな性格じゃないだろう!」と叫ぶが、

 この時点で彼等を知る者には、長野氏が一番に手を挙げるような積極的な

 性格じゃないのは百も承知だ。

 だから、ここから芝居が始まる。

 勿論、長野氏の声の出し方・話し方ががらりと変わる。

 で、その後、もう1回、変わってた。

 今度は声の音が変わった気がした。

 次の瞬間、そこにいたのは、井ノ原氏に

 「(自分しかイノッチは居ない!と)言い切っちゃったかぁ!」と残念がる、

 おかしな事を言い出す「世奇妙的な人間」と化した「イノシシっち」(笑)

 そして、由利の登場である。

 

 

●あなたが繋がるのは…

 立て板に水の如く、星にまつわる話を展開していくオープニングトーク中の長野氏。

 10人中9人ぐらい

 「あなたの魂が帰るのは、光の国がある星でしょうが。」

 と思ったに違いない(笑)

 

 

●手の動きが美しい。

 長谷川の小説を、病院のベンチで読み始める三池と由利だが、

 大きな原稿用紙を両手で支えるようにしてそれぞれ読み始めるというスタイル。

 その後、小説の内容を、いくつか場面転換・歌・踊り含めて展開して、

 曲終わりの音楽に合わせて、今度は最初と同じように、

 しかし原稿用紙を持っている風の仕草でベンチまで戻る。

 その時の由利の手の動きが、そこに本当に原稿用紙があるように、

 しかも、なんとも大切なものを乗せているという動きに目を惹かれた。

 

 

シドニーかと思った。

 いや、それだけじゃ、なんだか解らないだろ(笑)

 長谷川の意識空間(小説内)に閉じ込められた三池と由利の「世奇妙」的な恐怖と、

 この二人だからできる絶妙な間とが織り成す、コミカルだけど大事な場面。

 しかし、基本的に舞台の上ではオーバーアクションリアクションの

 日本人離れした動きが芯まで染みついている二人がいる(笑)

 やりとりは王道のボケ・ツッコミをやっているのに、

 動きが「欧米かっ!」みたいな(笑)

 特に、「お前は勇気があるんだ!」と、言い含める由利が、

 『DEATHTRAP』で田中健氏が演じた、長野氏演じるクリフのお相手役シドニーに、

 身振り手振り、台詞回しまで、あまりにもそっくりで、

 頭を抱えるファンがここに一人(笑)

 あなたがそっち側になってどうするんだ。

 永遠のクリフで居てくれよぉ~(無理です:笑)

 

 

●科学的に説明ができない催眠術

 同じ場面にて。

 恐怖に騒ぎ回る三池を、自らの理論を元になんとか落ち着かせ、

 脱出方法を探る由利。

 脱出のために、由利の理論に従って、何らかの行動を起こさねばならないが、

 何か行動を起こすのも怖い、さらに失敗するのも怖い、

 そんな状況は三池も由利も「自分がやりたくはない」ものだ。

 でも、見事に、三池→「やらされる」、由利→「やらせる」になる。

 日頃の坂本氏、長野氏の関係性を知っていれば、とても頷けて笑える場面だ。

 おいら的には、そのやり方が面白い。

 そう思って見ると、これは長野氏のいつもの得意技なのだ。

 まぁ、でも、おそらくは「無意識」なんだろうけど(笑)

 このような状況で、相手を自分の意に添わせたいと思った時、

 彼は相手の目を真正面から見て、視線でホールドして、決して目を逸らせなくする。

 そして、いつもは穏やかな音色の声と語り口調なのに、

 一字一句が耳に残るほどのやけに力を持った声と口調になる。

 つまり、催眠術(笑)

 トニの2人は勿論、カミの3人も、

 これを使われている場面が何度となく思い出せる。

 特に掛かりやすいのがモリタさんとオカダさんだ(笑)

 当然ながら、一介の下僕ごとき我らがそんな機会に巡り会うことは無いが、

 実際に彼の目の前に立って、それをやられたら、その威力は絶大と思われる。

 ここに証言者がいる。

 以前、共演したジェイ・カビラ氏はこう言った。

 「あの目に見つめられたら、何でもしよう、してやろうと思う。」

 この辺は、演技の上で偶然できた場面なのか、

 それともGさんが意図的に入れたものだろうか。

 

 

●ホルンの持ち方が教科書通り(笑)

 教えて貰ったこと、教則本に書いてあったことを、

 きっと忠実に守ってるのだろうな、と思えるホルンの扱い。実に長野氏らしい。

 その動きたるや、まるで衛兵の交代式の動き(笑)

 

 

●悲劇、喜劇とはこのことか。

 由利の母親からの手紙の場面。

 核心のネタばらしがあった瞬間の教授と由利の反応は、見事なコンビネーション。

 立ち上がって手紙の中のはずの母親(しかし、舞台端に実際登場している)に、

 無言ツッコミしようとする教授と、

 あまりのショックに愕然とする由利に、

 これまたどう慰めてたら良いかと悩む教授と。

 一瞬、ビアリーストック&ブルーム(c.プロデューサーズ)がそこにいた(笑)

 『フライパンと拳銃』の時も思ったが、

 Gさんはこういうヨシモト的な感じが好きなのかな。

 

 

●お母さん!どこの国の人ですか?

 ほら、そこの由利のお母さん!

 早着替えをしなければならないのは解るが、

 もう少し和風な小田舎のおばあちゃんにならなかったのだろうか(笑)

 割烹着風だとか、サザエさんとこのフネさんのようなカツラだとか。

 一緒に見た妹曰く、

 「由利のお母さんは、何処のコネチカット州に住んでるんだ!?」

 確かに…(笑)

 

 

●戸惑うために気になってしまう

 一人称。

 まさか、好きに使えなどと、そんなお芝居台本は無いと思うので、

 意図的に操られていたものと前提で思考する。

 このお話、登場人物達は、その存在が非常に曖昧だ。

 坂本氏みたいな「いの(る)っち」、坂本氏みたいな三池、

 三池みたいで三池ではない画家、三池ではない記憶を持っている三池、

 どう見ても坂本氏なやくざ…ぁ、これは明らかに別人か(笑)

 「今、そこにいるのは誰だ?」

 それを常に頭に置いて、さらには後に戻って脳内確認もしていかないと、

 余計に戸惑う羽目になる。

 (格好いい~、可愛い~、だけでいいのなら、それはそれで幸せなんだろうけども:笑)

 一人称にもそれなりの工夫が凝らされていた… 

 などと、「これは仮説に過ぎない」けども。

 残念ながら、おいらにはもう観劇の機会は無いので、

 DVDでも出ない限り、その検証はお預けだ。

 

 

●果たして、三池が書いた画は…

 ラストシーン。

 果たして長谷川の書いた小説だったのか、

 それとも勝手に集団催眠に掛かってしまったからなのか。

 しかし、少なくとも記憶の中に、いずれにも大切な女性の想い出を共有した三人。

 自分が誰だか、もうほとんど判らなくなっている病床の長谷川。

 その彼の画を描きたいという三池。

 それを見つめる由利。

 三池の描く画には、また、あの不思議な力は戻っているのか。

 その画を見て由利が言いかけた言葉の先はなんだったのか。

 そして、自分が誰だか判らないはずの長谷川が「僕だよ」と断言する画の姿とは。

 

 「これは私の仮説に過ぎないが…」と由利の台詞ではないが、

 自分にはそれについて思い至ったことが1つある。

 しかし、それについては、あまりにもファンタジックで、

 自分でも「ほんとにぃ?」レベルのネタなので、黙っておく。

 ただ、それを思い至るきっかけとなったのは、そのシーンで、

 三池が熱心に書いているベッドにいる長谷川を見つめている由利の姿というか、

 その彼が発している気といえばいいのか、オーラといえばいいのか。

 時々、彼(長野氏)が醸す光というのか。

 おかしな表現を承知で言うが、なんとも神々しく慈悲深い光に包まれて、

 彼はそこに柔らかくたたずんで、長谷川を、そして三池を見ている。

 「手紙の代筆をしていると、その人の心が僕の心を通り抜けて…

  僕は、自分を少しずつ失う」

 長谷川はそう言った。その意味が、そこに降りてきた。

 この『戸惑い』の答えは、示されることがあるのだろうか。

 

 

 

さて、ここから下は世迷い言。

愚痴も漏らしたりしてます。

 

 

●ラストシーン。

 「『戸惑いの惑星』という小説は、この僕が書きます。こんな風にね。」と、

 イノハラヨシヒコという男が舞台に飛び込んでくるんじゃないかと…(笑)

 そう、判る人には判る長野氏版『DEATHTRAP』のラストシーン。

 2回目見終わった後ぐらいから、結びついてしまって、頭から離れない(笑)

 あのラストは、

 「今のは、悪魔のようなクリフォードが見せた、

  悪夢のような小説の場面だったのか…」

 と、観客までその罠に掛け、半分納得、半分大混乱に落とし入れる手法。

 この舞台は、どちらかというと、

 そうやってイノハラという男が飛び込んでこなかったから、

 タイトル通りの「戸惑い」を残して終わる、ってとこなのかな。

 

 

木曜スペシャル!!

 矢追純一シリーズ!!

 素晴らしい。ちゃんと「木曜」と言ってたのが。「水曜」じゃなかった(笑)。

 ユリ・ゲラーのスプーン曲げ。懐かしいねぇ。

 実は、ウチの田舎も由利のお母さん状態で取材が入った事があるのよ(笑)

 スプーンじゃなくて、空飛ぶ円盤だったけど。

 由利の言ってたように、最近の若い子には解らないネタだけど、 

 おいら的には、とってもなじみ深い。

 (でも最近の人達も時々お世話になってるよ。ポケモンに「ユンゲラー」ってのがいるでしょ:笑)

 

 

ユング集合的無意識の体現

 長谷川の小説空間(閉塞されたBAR)に閉じ込められた三池と由利が、

 そこから脱出しようと、由利が三池にその理論を伝えようとする、

 そのまま聞けばなんとも難しい概念的なお話。

 確かに、由利が言うように「アスリートや芸術家の話」も

 身近な尺度で理解できる話だが、

 我々、由利…いや、長野氏ファンにはもっと簡単な話がある。

 

 これ↓(笑)

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 「その人の無意識は、無意識の集合体を通じて、

  宇宙の果てを越え(別の世界の自分と繋がって)奇跡を起こす」

 

 いや、違ったらごめんなさい、ユング様(土下座)

 

 

●大好物

 由利の研究する内容は、おいらにとってはとても興味深いものばかり。

 「写真を見せた反応」の研究考察は、それが本当にあるデータだとしたら、

 ちょっと読みふけってしまいそうな内容だった。

 超自然を否定しない科学。それこそが科学の始まりだと、おいらは思う。

 あの非常に名言を残す教授も、イケメンな助手も含め、

 是非とも、あの学部に入りたいものだ(笑)。

 ちなみに長野氏であって長野氏でない「星に戸惑う」彼が言うように、我々の宇宙には、

 普通の電卓では桁の足りない数の星が存在している。ビッグバン以来膨張し続ける宇宙が、

 ある日突然収縮に転じたら…

 縮まっていく宇宙空間の中で、太陽や太陽系の惑星達を含め、その無数の星のいくつかが、

 地球目掛けて飛んできて、互いにぶつかり合い、砕け、固まることになるだろう…

 なんてブラックな説を聞いたことがあるのを思い出していた。

 

 

●戸惑った、戸惑った

 いや、何故、金管

 しかも、そんな難しい方へ行かなくったって、と、戸惑う戸惑う(笑)

 その必然性は、おいらが理解できなかっただけで、

 芝居の中でちゃんと表現されているのかもしれない。

 チャレンジしているというのは解るけど、

 実際、決して「ちゃんと演奏できている」というレベルにはほど遠いわけで。

 金管で無ければならなかったのなら、

 どうしてサキソフォン辺りにしなかったんだろう?

 他の楽器でも、まだあの芝居の雰囲気を壊さず、

 しかも、ちゃんと演奏できるレベルに持って行ける楽器があるだろうに。

 同じ練習する、同じ苦労するのなら、

 他にもやることがあるんじゃないの?的なことを、

 ゲネのニュースを聞いからずっと、そして実際芝居を見終わってもずっと、

 おいらは戸惑っている。

 まぁ、あそこの事務所の舞台ってそういうのが本当に好きよね。

 

 

●やはりおいらはタモリさんである

 「ミュージカルでもないし、音楽劇と言った方が…」

 言いたいことは解るけども、それでも芝居の途中で突然歌い出すのは同じ事で。

 本当にミュージカルしている場面もあったし(笑)

 タモさんの言では無いけど、おいらは苦手だなぁ、と改めて今回。

 好みの問題だから仕方ないよなぁ、こればかりは。

 芝居は芝居として見たい。音楽も音楽としてちゃんと聴きたい。

 「これは仮説に過ぎない」けど、

 おいら的に、きっと感じる脳の位置が離れてるんだと思う、たぶん(笑) 

 

 

●「俺たちの曲なんですよ」

 そう胸を張りたいなら、曲を大切にしてやってくれ。

 CDにおまけのように付けて、販売したらそれっきり。

 コンサートでやることが1回あったら幸せな方。

 しかも演ってもワンコーラス、ワンフレーズ。

 そんなんじゃ、曲が息をする時がないじゃないか。

 歌ってやって、踊ってやって、その曲は、君たちの曲として生きるんじゃないか。

 20数年前からの不遇な時代も知ってるから、

 そう簡単にコンサートなんかさせて貰えない事務所様だというのは重々承知だけど、

 それでも、「俺たちの曲」と胸を張りたいなら、

 もっともっと歌ってやる、ファンにも、ファンじゃない人間にも、聞かせてやる、

 そんな機会を作ってやらなきゃ。

 曲が可哀想だよ。

 そう、いつも思ってる。

 あんなにたくさん、良い曲達がいるというのに…

 

 

●「ハーモニー」の意味は「調和」

 負けない様に声を張り上げて歌うことでは得られない。 

 自分だけ気持ちよく歌っていても得られない。

 同じ技量で歌えなければ得られない。

 

 

●でもね…

 『TTT』。良い活動だと思うよ。

 3人で好きなことをやって、我らがそれを見る機会がある。

 是非、続けて欲しい。

 (ディナーショーみたいに、また1回こっきりにならなきゃいいんだけど…)

 ただね。

 おいらは、演技をするなら3人でじゃなくていいと思ってる。 

 3人いたら、ホントに本当に、天才的に上手に書かれた作品でなければ、

 その3人の枠を脱出しきれない。

 今回の設定がそうだったからというのがあるからと言われるかもしれないが…

 それは、もう、「サンダンス」を見た時からの切なる想いなのさ。

 役者をやるなら、一人で、別の世界の人達と、違う人間となって見せて欲しい。

 

 3人で何かをやるなら、まずはコンサートをコンスタントにやってくれ。

 普段のことがちゃんとできて、

 その先に「冒険」ってものがあるんじゃないだろうか。

 これまでもやってきたように、コンサートの中で、

 どんだけ小芝居をしようが、チャレンジをしようが、脱線しようが、

 それが、あなたたち『TTT』の世界になるんじゃないだろうか。

 「俺たちの曲なんですよ」と胸を張る為にも、きっとその方が良いと思うな。 

 

 

以上、お粗末様でした。<(_ _)>

 

本当に、次は…、次のTTTプロジェクトは、あるのか…

まぁ、あの事務所のことだから、怪しいもんだ。

期待をせずに、待っておく。